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2007年11月号
いかにして自らを犠牲にするのか
犠牲と聞くと、何となく後ずさりしてしまうような、ちょっとこわいようなそんな印象を受けるかもしれません。手持ちの辞書には、犠牲の意味のAとして、身命を捧げて他のために尽くすこと。ある目的を達成するために、それに伴う損失を顧みないこと。とあります。つまり自分ではない何かに自分が尽くし、さらにはその損失を顧みないということのようです。こうしてみると、犠牲とはある程度の強い熱意が伴わないとできない行為であるように思えます。人が何かに尽くすという場面は多々あります。仕事に尽くす、趣味に尽くす、家族に尽くす、勉学に尽くす、スポーツに尽くす、などなど。こうしてみてみると、何かの目的をもって尽くしているようです。
例えば、仕事に尽くすのは、キャリアを積むため、社会に認められるようになるため、お金を稼ぐため、ある信念を貫くため、社会貢献のため・・・目的はいろいろあるようです。仕事に尽くすといってもその目的は一概にはいえないようです。
私が信仰するものにおいては、目的を常に尋ねられているようなそんな気がします。あらゆる行動について常に問われているという意識から、ついつい自分で自分に問いかけてしまいます。「私は何の目的のためにコレ(何らかの行為)をしているのか?」
人生、(現世でも、この世でもいいですが)という期間に、どの目的のために
自分のこの時間を充当させるか、つまり自分の時間を犠牲にしてどんな目的を達成したいのかという問題へとつながっていきます。ある人にとっては、富を得て生活に不自由のない生活を送ることがその目的となります。またある人には、自分のしたいことを残らず実行するということかもしれません。その目的の設定のしかたで、人生の生き方もそれぞれの姿をみせます。
目的の設定の仕方で、人生の様子も変わるということがいえます。しかし、その目的は必ずしも意識されて設定されているとは限りません。多くの人は、「人生ってなんだろう」といった疑問や、人生の目的にあいまいさをもちながら生活していると思います。その人生の目的の設定の仕方によっては、人生が一変します。それはほとんど劇的といってよいほど一変することがあります。
私の場合、人生は限られた期間だということから、好きなことを、自分のしたいことをできる限りしようという目的がありましたが、それは次第に、家族や友達に愛を示す、あるいはその人間関係を大切にするという目的に変わりました。そして今は、それも越えて好きなこと、自分のしたいことはすると思いますが、家族や友人関係はもっと重視したい、でもそこに信仰というものが加わり、家族さえも介入できない自分の人生というものがあるということで、それが新たな目的となりました。
新たな目的を意識するからといって家族や友人をないがしろにするというのではなく、むしろ信仰から派生的現れるような愛情は以前のそれよりもはるかに大きいものとなりました。犠牲祭という機会に「犠牲」という言葉を人生と照らし合わせて考えてみました。目標がぶれると、それに伴う行動もぶれてしまいます。その行動が人生というわけです。私も今一度、人生の目標を肝に銘じたいと思います。

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