2007年8月号 


どうしたら罪を避けられますか?


罪に対する最大の避難場所となる悔悟に特別な注意を払うことは、我々の精神的・感情的な生活にとって以下の点で非常に重要となります。


罪に対する反応


犯してしまった罪に対する反応は、人の道徳的・精神的段階と密接に関わっています。罪のため、神の前にひれ伏し許しを哀願する場合があるかもしれません。またはそうした行動に満足せず、悲しみによって心の中に火災が発生することもあるかもしれません。しかし心を乱す悔恨という名の悲しみが、より神に受け入れられるよう我々は願います。


悔悟とは実に後悔と内なる発熱です。この点で、罪は蛇や有毒なムカデと一緒にいることだと考えるべきです。信者として、そうした断固たる態度のみが容認できるものです。なぜならそれと相容れない態度は罪が来世でもたらす結果に疑いを持っていることを意味するからです。それゆえ一つ一つの罪に対して油断ならないやり方で立ち向かい、もし犯してしまったら後悔の念を持つことが非常に重要です。

罪は一瞬であるべきである


罪は新たな罪を生み出すものですから、罪を犯してしまったときはいつでも、遅滞なく浄化を求めなければなりません。結局人間はいつ死ぬか誰も知りません。神を意識する者であれば罪から清められるまで安心することはできないのです。罪が一秒であっても存続するままにさせておくなら、それは人の精神的な幸福に悪影響をもたらします。さらにそうした態度は、神が好まれないことを崇めていることを意味します。罪が生き永らえる権利はないのです。つかの間の命でなければならないのです。

 

なぜなら悔悟を通じて取り除かれないと、それは絶え間なく人の心に噛み付く蛇となるからです。そしていったん心に染みがつくと、それはさらに広がりやすくなります。その最終的な結果は悪循環です。罪の一つ一つは新たな罪を生み出し、最後には「思うにかれらの行った(悪)事が、その心の錆(さび)となったのである。」(第83章 量を減らす者(アル・ムタッフィフィーン)章14節)と述べられていることが顕著となるのです。


こうした理由から、これらの真実を人々に想起させ罪に対する注意を喚起することが非常に重要となります。さらにはもしできるなら、罪の醜い性質を人々の目に晒(さら)し、彼らが罪を放棄するよう仕向けなければなりません。
敏感かつ注意を怠らない魂は罪が発する不快な臭気を嗅ぎ取るに違いありません。

罪は嫌悪されて当然とみなされるべきである


後悔の念を持つときに最も重要なことの一つは、その罪が憎むべき最低のものであると考えることです。罪は蛇や蠍と一緒にいるようなものであり嫌悪感を持ってしかるべきものと確信して罪を絶つようにしなければ、悔悟を通じてそれに立ち向かおうとする強固な意志は持てないでしょう。

 

例として、非常に貴重なクリスタルの花瓶を割ってしまったとしたら、あなたは非常に悲しむでしょう。同じように、罪は犯す度にあなたの生命のランタンにひびを入らせ汚してしまうのです。よって、一つ一つの罪を犯してしまった後には後悔と悲しみを感じることが必要です。少なくともクリスタルの花瓶を割ってしまった後に感じるほどの悲しみを。そうでなければ罪も悔悟も真摯にとらえていることにはなりません。

罪と悔悟の一致


罪に対する悔悟の念はその罪の重大性の程度と一致していなければなりません。罪はピッチで満たされた井戸のようなもので、落ちるのはたやすくてもそこから抜け出すのは非常に困難だからです。

罪を認識すること


罪のもたらす結果を見くびるなら、それは最初に犯した罪に匹敵する別の罪を新たに犯していることになります。例えば、罪が宗教によって誇張されているものであり、私通や他人の財産の侵害は権利であると考えて、「そこから利益を受けているのだからなぜ罪とみなす必要があるのか?」と言う者があれば、それはさらに大きな罪を犯していることになります。よって我々は罪を退け、自分自身をこういった状態に保たなければなりません。「罪よ、私の心に通じる扉は閉ざされている。いくら熱心に私の心に入ろうとしても無駄な試みだ。」


偉大な学者であるベディウッザマン・サイド・ヌルスィの挙げた比喩は非常に表現豊かなものです。「罪は、それがあたかも有毒な蛇かムカデかであるかのようにそこから逃れなさい。」彼が罪をライオンやトラではなくむしろ蛇やムカデにたとえていることに注目してください。ライオンやトラは大胆に攻撃するので人はそれに備えることができます。それに引き換え蛇やムカデは不意に、そして意地悪げに攻撃をしかけてくるものです。陰で中傷する行為や裏切りはそうした罪の例として考えられるかもしれません。


要するに、罪に対する用心は真の信者たるものの属性であるべきです。我々は罪に対する警戒が、我々の全能の主に対する忠誠、信義の表れであることを心に留め置く必要があります。


預言者ムハンマドの御言葉に表された観点から罪の本質を理解することができます。「Adhnaba 'abdi dhanban」、これは罪を犯してそれから悔悟する神のしもべについて述べています。この言葉において用いられている単語は非常に意味深いものです。「dhanb(罪)」と「dhanab(尻尾)」はアラビア語の同じ語根に由来しています。ゆえに信者の言葉、「主よ、私は罪を犯しました。」は以下のことを意味します。「主よ、私はまたもや尻尾(しっぽ)をつけてしまいました。

 

現在の状況で、あなたは私をふさふさの尻尾をつけた狐、その尾で他人を刺す蠍、もしくは尾が体の長い部分を占める蛇だとみなされるかもしれません。そしてそれが私なのです。」言い換えるなら、罪を告白する者とは実際には、アッラーから授けられた人間性を軽んじ見くびり、結果として動物のレベルに落ちたことを告白しているのです。


罪を犯し、それに気付かないでいる者は「かれらは家畜のようである。いやそれよりも迷っている。(第7章 高壁(アル・アアラーフ)章179節)」という節の反射鏡で、動物以下のレベルに落下しているのです。
    


 


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