読者からのメッセージ 

 

私が「やすらぎ」と出会ってから約一年半になる。購読のきっかけは、自らの意志ではなく主人が勧めてくれたのだった。その頃の私は改宗をしたのに、イスラームについて何も知らなかったし、知ることに非常な強制を勝手に感じていた時期だったので、当然ムスリムとしてどう生きるかなど考えることなどなかった。それでも、自分の心にいつも言い難い虚しさや寂しさを感じていたし、それを否定したい反発で常にとげとげしかった。今思えば、主人はそんな私に困り果て、助け船として購読を勧めてくれたのだと思う。


購読が始まっても、数ヶ月はまだ反発していた。読んでも軽く流して、内容まで深く考えようとはしなかった。そして、おそらく去年のラマダーンの時期だったと思う。ある友人が、周りが変わらないと愚痴をこぼすだけの私を叱咤し、私の自我の強さを指摘してくれた。私はこの言葉に大きなショックを受けたし、受け入れるのに時間もかかったが本当にその通りだと思った。私が変われば、もっと成長できれば、物事がもっとスムーズにいくのかもしれない。実際そんな謙虚には思えず、心の半分では疎ましかった。でも、やってみようと思い立ち、そこに答えを見つけるために「やすらぎ」をゆっくりゆっくり読み始めた。答えを見つけるというより、毎回先生に叱咤激励を受ける生徒の気分になっている。しかし、すぐに忘れて実践には及ばずなので、出来の悪い生徒なのだが・・・。


大人になると自分を叱ってくれるような存在を見つけることは難しい。だから、無意識に自分勝手な方向に進んでいくし、自分が正しいと信じきってしまう。私には、良しも悪しも指摘してくれる友人もおり幸せだが、「やすらぎ」もまた、私を叱ってくれる存在に感じてる。また、人間とは違う活字のメッセージは咀嚼できるからこそ時を隔てて読み直しても重みがある。そして、反省して少し疲れると、映画やエッセイのコーナーもあって息抜きもしている。(アメとムチ?)


これからも、末永く「やすらぎ」と一緒に成長させてもらいたい。


Shuri、2006/8/17

 

 

「やすらぎ」毎月楽しみに読んでいます。ありがとうございます。私のムスリムとしての人生と「やすらぎ」はだいたい同じような長さなのでなんとなく私のムスリムとしての人生の手にはいつも「やすらぎ」があるような感じです。

 

最初、雑誌の名前が「やすらぎ」と聞いた時には正直言ってピンと来ませんでした。ちょっとやぼったいというか…なぜかと考えたら、世の中には「やすらぎ」という言葉があふれているからです。新しいマンションを売り出すチラシには「やすらぎの住まい」とか、うちの近所には「スナックやすらぎ」とか「喫茶やすらぎ」なんていうのもありますし、葬祭関係の会社では一番頻繁に使われているかもしれません。使い古されている言葉というイメージです。

 

でもそれは人間が、日本人がいかにやすらぎを求めているのかという事の現れです。贅沢な暮らしやステイタスを求めて競争し、新しい物を探して世界中を周っても結局私達人間が一番欲しいものがやすらぎなのだと思います。私達ムスリムは、それをアッラーに少しでも近付くこと、来世を目指すことに見い出して日々戦っています。自分の中に巣くおうとする悪魔を見つめ、私達の預言者さまを目標に、少しでもよりよく生きようと努めています。

 

そんな生活は、周りから見たらつらいものなのかもしれませんが、実は私達はこの上ないやすらぎに包まれているのだと思えます。物質では満たされない自分に気付かないふりをし、苦しみながらやすらぎを探し続ける人生に比べて なんと幸せなのかと思います。 やすらぎを求めながら、それがどこにあるのか、どうしたら手に入るのか、手に入れるために何をしたらいいのか全くわからずに生きるのは、暗闇をたった一人でさまようような気持ちなのだと思います。こんな事を考えて初めて、この雑誌のタイトルの深い意味が少しわかったような気がしました。

 

インシャッラー、「やすらぎ」が5年、10年と続くにつれて、私もちょっとずつ成長して今は気付かないいろいろな事に気付いていけたらいいなと思います。


(YA)、2006/7/21
 

 

いつも「やすらぎ」を送ってくださり、ありがとうございます。毎月「やすらぎ」が届くのをとても楽しみにしています。


毎回、編集者の方が私の心のうちを知って私のために文章を編集しているのかしらと錯覚するぐらい、私の心の状態にぴったり当てはまるような文章が多いです。特にA.シャーヒン師のお言葉、「こわれた壺」、「心を知る」などはいつも私へのメッセージ(アドバイス)として受け取っています。私はよほど自我が強いのでしょうね。

 

でも、「やすらぎ」の文章を読むことで、自分の自我に気付き己の卑小さを感じると共に、偉大なるアッラーを想い起こし、慈悲あまねく慈愛ふかきアッラーの御許に懺悔して帰りたくなる日々です。


エッセイでは日々の生活の中でのアッラーとの関わりを感じ、「映画から考える」もじっくりその映画を鑑賞したくなるような深い洞察で、このような視点からものを見ることもできるのだなと心の幅が広がりそうです。また科学の視点からも書かれており、一つの事象をとって見てもいろいろな角度からアッラーのことを想い起こすことができるのですね。


まさにこうしたズィクル(アッラーを想い起こす)の機会を与えてくださり、母国語である日本語で読める「やすらぎ」は私にとってとても貴重です。
編集の奉仕に携わっている方々にアッラーからの報酬が豊かにありますように。これからもアッラーを想い起こすきっかけとなる「やすらぎ」がアッラーの御助力によってずっと続きますように。


(H.T.)、2006/6/4

 

 

いくつもの参考文献を通しての “愛への気づき”への道案内をしてくれるすばらしい寄稿だと思いました。

「凍てついた心を光のあたたかさで溶かし、光源に向かって心を開き、両目をしかと開いてこそはじめて人は光がもたらしてくれる栄養を心身ともに享受することができるのだ。真理の光を受けとめるのに、一番大きな障害となるものは何だろう。それは「思い上がり」と、「無関心」である。 ところが「愛」は、それを癒してくれる。」

真実の愛〈神)、である光はすばらしいもの。 でも、心の目を開いたことのない人や、大きなキズを負った人に、その光はあまりにも強力で、キズに滲みます。
光を脅威に感じる人もいます。“キズ”とは、「思い上がり」と、「無関心」 それから、「裏切り」や「嫉妬」によって暗闇に落とされた状態。その光源を心の奥深くで求めながらも、自分の中の闇に光が当たり、さらけ出され、キズを直視することに恐怖を感じ、ずっと目を閉じたままで 「愛にとてもよく似たもの」を求め続けて生涯を閉じるのは悲しい。真っ直ぐに進む光〈愛)を、真っ直ぐに受け止め、返すことができず、ブラックホールのように吸い込んで消してしまったり、脇へはね返してしまったり。

「私たちがこの世で経験する愛はその「真実の愛」に至るための「訓練」であり、「導入部」に過ぎないのである。永遠なるアッラーに結びついた「愛」でないかぎり、どんな愛にも終わりがあるからだ。現世での生活がはかないものであり、終わりなき来世での生活こそが「真実の人生」であるというのと同じである。現世では、自由闊達な青春を永遠に謳歌できると思い込む一時があるが、あくまでもそれは幻想に過ぎない。男女の愛もまた然りである。」


アッラーの愛・光はとても強い。現世に生きる小さな私たち人間がまともに受け止めるなら、死んでしまうと思います。だからその愛(光、またはポジティブなエネルギー)は、今は別のものを介して弱い私たちに届けてくださる優しさを示してくださっていると解釈します。雨、風、植物、動物、人、土、空気、海、宇宙。。。は愛の媒介者。現世で生きる限り、地球そのものが、アッラーに近い来世で共に暮らすための私たちの訓練場(しつけの場)であり、遊び場。現世は良い夢をつくるよう毎日を過ごすところ... 死後(アッラーを知る魂の世界)が現実・真実なのだと信じています。

「人は何を愛するか
@ 自分自身
A 自分によくしてくれる存在
B よい人やものといった対象そのもの
C 美しいものの美しさ、良いものの良さ
D 自分と似たもの、相通ずるところのあるもの」

このすべてを求め、それぞれが完璧には絶対に満たされることはない、限りがある(永遠ではない)、この渇きを満たしてくれるものは人間に対して求めるものではない、と絶望の末に分かったとき人間という自分も含めた生き物の脆さ、不完全さに慈愛が湧いてくる...いわゆる愛、とはべつの愛情、でしょうか...そしてアッラーの大きさ、強さ、美しさ、無限のものを求め、そこに身をもたせかけ、預けてしまうと無防備でいられる赤ん坊に戻れたような信頼と安心感と心地よさを感じることができると思います。その中に溶けてしまって永遠に目を覚ましたくない!というくらい。私たちを本当に保護し心地よくあたたかい場所へ導いてくれるのはアッラー以外にない、という感動と感謝の気持ち...そこは実際に生きるこの時間とは全く別の世界。その世界が実際にあるのだと信じられること、それこそが真実なのだと気づいたとき、自然と愛を向ける対象はアッラーだけになるのでしょう。

この世の苦しみの種はすべて私たち自身が蒔き、作ってしまったもの。アッラーはこの世を難しくはお造りにはならなっかたはず。私たちはアッラーに起因するシンプルでクオリティのいい材料を勝手に混ぜ合わしてできた結果を自分たちで受け止めている、、でも、なぜ望まない結果がうまれるのか、まだ本当には気づいていないのかも。

とにかく、前野さんの文はとても嬉しくなる内容だったので、思ったこと、思い出したことがあり、いろいろ書いてしまいましたが、アッラーから私たちへのいろいろな形での愛を寸断なく感じ、受け止められるよう、自らの愛する能力(愛し方)と、愛の媒介者(ユニークなものも物も含めて)を受け入れる能力を少しづつでも広げ、高めていきたいと、心新たにさせてくれました。ありがとう。
 

 

 

私の魂は道を知っている、ということを“私”が知らなかった、ということをはじめてジャーミーの礼拝堂に一人で入ったときに知らされました。突然、ベージュの土地と花の咲いている木々とフルーツらしきもののなっている緑の木々が見えました(見たことのない風景でした)。どこかで感じたことのある懐かしい気持ちになりました。礼拝堂の中をそよ風が吹いてきてほのかなとてもいい香りがして、“なんだろう?でも、ああ、いい気持ちィ〜”と風をいっぱい吸い込んだら、突然、おなかの底から湧いてくるように涙があふれてきて止まらなくなってしまったのです。


悲しいような、うれしいような、なつかしいような涙でした。


“あの場所へ〈どの場所かはわからないのですが)かえりたい… なんでこんなところまで来てしまったのだろう? もう、遠くてどうやって帰ったらいいかわからない… なんで出てきてしまったのだろう”と訳のわからない気持ちでボロボロ泣いて、そのうち人がはいってきて礼拝がはじまって、それをきいていたらもっと涙も鼻も止まらなくて、私は礼拝中にわたしのようなよそ者が来て泣くなんて不謹慎(失礼)なことだと思い涙を止めようとしたけどぜんぜんコントロールできなくて。


その時、わたしは“わたし”が知らなかった(無視または疑っていた)魂である“私”がいて、それが泣き出したのだとわかりました。“わたし”ではなく、魂がジャーミーの中で開放されたようになり、反応したのだとびっくりしながら本当の自分に対面したような…。言葉にするのはすごく難しい感覚なのですが、あのなんともいえない夢のようなあたたかさとやさしい感覚とあの風は絶対に忘れられないし、二度と感じることがないかもしれないし。

だから私はどの人の魂も神、アッラーのもとから来たと考えています。アッラーの物は、アッラーへお返えしすべき。だから、わたしは、私の魂をアッラーにお返しするようにしなければ、と感じています、、、私の魂はわたしの物ではなく、アッラーのものだと。変ですか?でもわたしはそう感じているし、信じています。

今も私の魂と“わたし”は別々の状態です。でも“わたし”はわたしの魂が正しいものを知っている、ということを認識しています。
今はその分離した“わたし”をどう魂に重ね合わせていくか、という途中のような気がします。

 

 

最近のこと、私はある方の文章に触れて、大いに楽しませていただいた。短い一文から想像の羽がはばたき、一枚の絵を脳裏に描いて初めは笑っていたが、やがてそうまでして行われるべき大事な意味があったのかと神妙な気分になった。

さらに、この年までこんな事があるのを知らなかったという事実に唖然とした。

世の中はどんどん変化していき、私が理解できるものもできないものもある。しかし、この事に関しては周知の事実だったはずだ。

書店では入手できない雑誌『やすらぎ』がなければ、私は知り得なかった事実だった。

 『やすらぎ』に感謝しつつ、今なお不思議な気持ちでいる。

ひと葉

 

 

「やすらぎ」編集部の皆さんこんにちは。いつも楽しく読ませてもらっています。先日、「やすらぎ」購読者の数が世界中で200人近くになったと聞きびっくりしました。昨年の8月からはじまりこれだけの数になったとは本当にすばらしいの一言です。これもアッラーのおかげですね。「やすらぎ」を編集しているわけでもないのに感謝の気持でいっぱいになるのは私だけでしょうか? 


いろいろな読者がいらっしゃるでしょうから賛否両論あるとは思いますが、この忙しい現実社会のなかでこれを読んでいるとだれでも何か大切なことについて思い、考える時間を与えられるのではないでしょうか。私も普段の生活の中でいろいろ周りに振り回されたり、プレッシャーを感じてみたり、他人にあたってみたりとアップダウンが激しいときもあります。でも、結局解決に至る時はいつも自分で考え、納得してアッラーと自分の関係を築けたときだけです。「やすらぎ」はいつもこの手助けをしてくれていると思います。これからも多くの方にこの「やすらぎ」が読まれることをお祈りしています。
                                          

アンネ

 

 

7月号のテーマは「学ぶ」ってことで、改めて自分の今いる立場を考えるチャンスをもらったような感じがして、ドキドキしながらやすらぎに目を通していきました。なぜかといえば、私は数年前からシリアにやってきてから、学ぶ「学生」であり、他の人にめぐってこなかった外国での学習機会をアッラーにもらった以上、きちんと勉強する義務があると分かっていたからです。


勉強を怠れば、、、アッラーのために勉強しているという純粋なニヤ(意思)から外れてしまったら、アッラーはきっと私のことを怒って、それを思い知らせることをなさるでしょう。そんな危ないことになってしまう前に私は旅行中に届いていた「やすらぎ」を開いたのでした。


読み進めていくたびに、自分のニヤの再確認を自然としていました。あのときに感じた緊張感を常に維持できたらどんなにいいか。。そうなるよう、アッラーに祈っています。
編集に携わる方々、読者の皆様、真実なる知識を求める人たちにアッラーの慈悲と祝福があることを祈ります。

 

イマン

 

 

毎号楽しく読ませていただいています。「聖クルアーンと科学」は、アッラーの言葉が真実であることわかりやすく解説されていて興味深いです。目に見えることしか信じない傾向にある現代の人たちにも、納得する部分が多いのではないかと思います。これから先、もっとたくさんの事がアッラーの英知であると解き明かされていくのが楽しみです。

 

ザイナブ

 

 

 

アッサラ−ムアライクム。
やすらぎを送ってくださってどうもありがとうございます。
その名の通り、すごく、安らぎます!!
科学と密接したコーナーでは、いろいろ、驚かせられて、
アッラーの偉大さを、感じずにはいられません。

最近は、3歳の息子も、進んで、アッラー・アクバルすると言って、MY CARPET!!を持ってきます。アルハムドリッラー。ムスリマになれたことを感謝する、毎日です。これからも宜しくお願いします。

ヤスミン・久美子

 

 

やすらぎ編集部ご一同様

Assalam Aleykom Wa Rahmatu-Llahi Wa Barakatuh.

拙稿をご採用くださるとのこと、ありがとうございます。


お送りしました原稿に、少し助詞の間違いなどを発見しましたので、もう遅いかもしれませんが、またそちらで校正していただけることと思いますが、一応訂正したものを再送いたします。

「やすらぎ」は入信間もない人や、求道者にもなじみやすい誌面で、発行当初から私は大好きです。


お料理やアロマのページなど、女性向けのページもいつも楽しみですし、またファーティマ佐久間さんの「詳しく学んでみましょう」も、初心者にはとても有益なページで、また手馴れたはずの人も意識を新たにさせられることと思います。


リサレイ・ヌルスィコレクションのコーナーも、よく読んで黙想するページです。ハッジにいった時、マディーナでトルコ人のご家族からたいへん温かなおもてなしを受け、そのとき奥様からきれいなトルコのヒジャーブと、「FRUITS FROM THE TREE OF LIGHT」というヌルスィの本、彼の念祷書、彼の伝記をいただきました。そもそも私がヌルスィについて知ったのは、やすらぎ誌面だったのですが、彼の霊的指導書をもっと知りたいと強く思っていた矢先でしたので、とても嬉しく思いました。彼の著作は、これからもどんどん紹介してくださいね。

「やすらぎ」は特に女性向けと言うわけではないと思いますが、いわゆる勉強一辺倒ではなく、日々の生活の中で、アッラーがお与え下さった、様々な善きもの(ハラール)を慈しむ喜びを感じさせてくれる誌面で、このようなスタイルのイスラーム誌は日本では他にないと思います。

それではこの聖なる月に、益々皆さまの上にアッラーからの祝福と報奨が豊かにありますように。

ハニーファ

 

 

皆さんお元気ですか。


やすらぎの中の言葉で私は最近救われました。父が急に亡くなり、主人から泣かないでと言われますけど、毎晩のように泣いていました。私達人間は神様のもとへ、そのするべき役割を果たしたとき迎え入れられるということをそのやすらぎの雑誌からわかったのです。


それから、父は一生懸命障害者である母を助け、その仕事を果たし終えたのだろうと思います。神様ももう休みなさいと父を早くに呼ばれたのではと思っています。


すばらしい雑誌をこれからもどうぞ送ってください。まだ私はイスラムについて知ろうという意欲が薄いのですがその教えは純粋で日々の生活のなかで潤いあるエッセンスのようです。


主人が祈りを終えた後、本当にすっきりとした顔をしています。神との会話ができることはすばらしいですね。ゆっくりと時間をかけて、私もイスラムについて勉強できればと思います。イスラムの信仰を心から持つとき本当の心の贅沢ができるのでしょう。

神に感謝。

 

H.E.

 

 

 

アッサラームアライクム。


やすらぎ一月号を拝見し、はっと思ったところがありましたので、携帯からですが、お便りいたします。私も昨年末から、がむしゃらにクルアーンの暗記と読唱をしておりました。主人はよく、クルアーンは少しずつ読むものだと私に注意していましたが、早くクルアーンを覚えたくて、突っ走っていたようです。こわれた壺のハーフィズと若者の所を読んで、やはり私は間違っていたと感じ、アッラーが目の前にいらっしゃることを忘れていたようです。また、ハニーファさまのお母さまの介護にも頭が下がる思いです。


私も両親を介護する身になっていますが、感情が先にきて、やさしくなれなかったりすることがあります。そんな時は決まって、忙しさや極度の疲れで、礼拝ができずにいるようなときです。礼拝することによって、感情のコントロールもできるという事を知りながらも、怠っていた私が恥ずかしいです。そういったことを気付かせる為に、今回、やすらぎが送られてきたように感じます。アスタグフィルッラー。私はこれから、どんなことがあっても、アルハムドゥリッラーと言える人生を送りたいです。

ワッサラーム

 

ヤスミン・久美子

 

 

死を考える時

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。
天にあり地にある凡てのものは、アッラーを讃える。
本当にかれは偉力ならびなく英明であられる。
天と地の大権は、かれの有である。
かれは生を授け、また死を授ける。
かれは凡てに就いて全能であられる。(57章1―2節)

死を考える時、同時にこの世界の避けられない真実を見つめているような感じをうけます。私がイスラーム教徒になって初めて勉強会で聞いた話は、死後の話でした。これまで「死」について考えることを避けてきた私には、とても衝撃的な内容でした。イスラーム教徒になった今、限りのある人生を考えずにはいられなくなりました。時々自分自身を残り少ない人生を思うおばあさんのような立場におくこともあります。実際、人間の平均寿命では、日本人女性は80歳を越していますが、不意の事故や、災害で死を迎える場合も少なくないのです。死を前にして、何を考え、どう行動するかを教えてくれるのはイスラームであるともいえます。こう考えてみると悲観的になってしまいそうですが、死はどの人間にも起こることなのです。

 

イスラーム教徒になる前、「死」について考えることを極力避けてきました。自分が死んでしまったことを考えるとジレンマに陥ったような、自分が解けてしまうような、すごく不愉快で、貧血で目が回るようなとても怖いものでした。イスラームでは死を考えることは避けられません。人間は常に死を意識して、死を迎えるまでに善行につとめ、悪行を改めることが奨励されます。また、イスラームでは神によって生かされていると考えますから、与えられた恵み(人間の体、水や食べ物など)に感謝し、決して傲慢にならずに生活することが奨励されます。毎日五回の礼拝も、自分がエゴイスティックな欲に身を任せる生活に没頭しないように課されているだろうし、断食も欲を絶つことで、無力さを知るよい機会なのでしょう。それでも人間は忘れやすい生き物ですから、自分の欲に走ってしまって、善行を積めないときがあります。

 

しかし、限りあるこの世で、可能な限り努力をし、後悔しない生き方を目指すのです。この世に生を授かったことは大変価値のある神様からの贈り物のようなものです。ごく普通の生活の中で、様々な神様の贈り物が人間を支えています。人間のみならず、すべての生態系が絶妙なバランス、構造のもと存在しています。一方、ニュースでは様々な死が毎日伝えられています。ニュースにならない死も毎日存在するのです。避けられない死はともかく、人間が人間を陥れる死は疑問です。今、日本のニュースではイラクでの多くの死が報道されていますが、生命を重んじるイスラーム教徒が多く住むイラクで、これだけの死が報道されるということは矛盾を生むようで悲しいことです。しかしイスラームと紛争に関する死を直接結び付けることはあまりにも単純化した考え方であるし、イスラームとは切り離しにくいその背後の文化や習慣も同時に視野にいれるべきなのではないかと思います。なぜなら、イスラームを実践している人々(信仰告白、一日五回の礼拝、断食、喜捨、メッカへの巡礼)が世界中に存在する中、それらのイスラーム教徒すべてがアグレッシブに行動をしているわけではないからです。究極の現実主義ともいえるイスラーム教徒は死を迎えるまでの生活を見つめ、毎日毎日努力することが望まれているのです。

江住 よしえ

 

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