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2007年12月号
感性と感情
感性とは、人の感受性の範疇に入ってくる物事を、外的かつ内的な感覚によって把握することを意味する。この点において、一つもしくはそれ以上のものを同時に把握する人のことを、感受性が鋭い人、と呼ぶのだ。
理性とは脳が、良心とは魂が感じ、理解することである。一つめを「知ること」と定義するなら、二つめは「感性」と呼ぶことが適当であろう。だから、理性が働かず、良心が死んでいる人たちが、存在を感じ実感すること、その中で起こることを知ることは全く考えられないのだ。
英知の観点から感覚とは、魂それ自身の理解のメカニズムである、良心なのだ。この観点から見るなら、感性の欠如している人はある意味で良心をも持たず、良心を持たない人は感性をも持たないのだ。
より純粋な意味で感性とは、善と美、悪と醜さが内面の目によって感じられることである。このような手段によって多くの人間らしい特質が明らかになりえる。例えば、「敵を人質にした場合、殺すべきか、許すべきか。名誉を傷つけられた時、けなすべきか、人間として振舞うべきか。」私たちはこういった選択を常に、この意味での「感性」によって行なう。
感性は英知によって育てられ、発展させられる。物質主義的な考え方はそれを弱め、鈍くする。だからこそ、全ての問題において理性に頼ろうとする人は、感性の輝かしい世界を決して知ることができないのだ。
正しい感性は、悪意のない、また代償のない感受性を必要とする。真実の、そして完成された感受性もまた、真実の、完成された感性から生まれる。
感性や良心が欠如した人々の勝利は全て、完全に動物的な勝利である。そしてそれぞれに醜い行ないの連続によって成り立っている。物質主義が膨張し、自己中心主義が地獄の井戸のように恐ろしい状態となり、魂がその翼を失い、良心の働きが麻痺することによって完成するのだ。
宗教、祖国、そして民族が受けている災難の苦痛、痛みをその良心によって感じるのは、感性の世界に目覚めた一部の高尚な魂であり、愛するこれらの尊いもののため、その生涯を捧げることを厭わない。感性や感情を持たない人は、自己犠牲について多く語ることはあっても、口にした事柄のうち最も小さいものですら実行する力を持たない。
自らが害を被ることが考えられるとしてもなお、他者のことを思い彼らのために生きること、彼らの痛みと喜びを分かち合うことといったような、一つ一つがそれぞれに尊さを持つ気質が一人の人において存在していることは、その人の魂の感性が強いものであることによるものである。このような感性をほとんど持っていないような人においては、このような気質の全体はもちろんのこと、そのうちのほんの一つですら見ることは不可能である。このような人において、美徳や勇敢さの名のもとに見出されるものは、他者が作って歌っている歌にハミングで加わっている人の、歌を作る能力のようなものである。
民族の発展、進歩は、その民族の個人個人における感性の一致や感受性の深さと結びついている。感性の世界において深みを帯びた人は、教えを広めることやその考えのために、自らが持っている全てを何のためらいもなく捧げる。手段をなくした時には病を得て去る。
感性の最も高い段階は、宗教的、民族的に尊い価値のあるものに対し攻撃、侵害が行なわれた時に生じる神経性の熱病であり、感受性の鋭い魂たちはマラリア患者のように震え、弱りきる。これをハミイェット(尊いものを守る際に示される努力や繊細さ)と呼ぶこともできる。
ハミイェット(尊いものを守る際に示される努力や繊細さ)は、価値がめちゃくちゃにされたり、尊く高い価値のあるものが崩壊したりしている場における魂の苦しみ、苦痛であり、真の人間と人間の形をしているだけの存在を区別する最もはっきりした特質である。頂点に達している最も気高い魂から、現在の苦しみを負った人に至るまで、香炉のように煙を出し続ける全ての苦しむ知性が、捉えられたこの病によって、時には山頂で、時には洞窟で寝起きし、彷徨い、熟考し、うめき、身をよじってきたのだ。そして私の考えによるなら、歴史上最も堂々たる時代を築きあげたのは、この感性やハミイェットの勇者たちなのである。

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