|
2007年9月号
タウヒードとアッラーへの愛情
思っていることが口に出された時、それを口に出した人ではなく、口に出させた存在に注意し、「アッラーがこのように話させられたのだ。」と考えなさい。このような考えかたは、誤りや危険を伴わないものとなる。
望むものをアッラーから求める人は、決して困窮しない。
アッラーを支えとする人はいつも生き生きしている。死んでいなくなったとしても、アッラーとの結びつきによって生き続けていると見なすことができる。
アッラーへの愛情のうち最も素晴らしいものは、一方がアッラーの崇高さへの賛美に、一方がアッラーへの畏怖によって囲まれているものである。
アッラーが、私たちがご自身を愛することができるよう、可能性を与えてくださったことは何と大きな一つの段階だろうか。
「この活力があれば目標は達成されるだろう」と言われた場合、それからまもなくその活力は失われる、ということは数多くの経験によって確実とされる。私たちがなすべきことは、歯を食いしばり必死になって、アッラーへの信頼のもとに努力することである。
その対象が打ちひしがれるよう、あなたが手を出すことがなくても、時期がくればアッラーのお力は必ずそれを罰せられる。
バルザフのたいまつ (バルザフ=死後、最後の審判を受けるまで待っている所)
タハージュドの礼拝(夜間、起きて行なう礼拝)は、バルザフの闇に対し、人が持つたいまつのようである。そもそも日に5回の礼拝のそれぞれが、人の暗い部分に光をもたらし、その時間の一定の部分に明かりを灯す。礼拝がなければ人は、宗教というルートを歩くことができず、正しくあることができない。預言者ムハンマドは、夜タハージュドの礼拝ができなかった時には昼間、カダーの礼拝をされた。これによっておそらく私たちに、人生において隙を作ってはいけないということを教えようとされたのだ。
内面世界
私たちの魂に入り込み、そこで根を張った全ての思想は、遅かれ早かれその果実を実らせる。この果実は、「天国のトゥーバ樹」の果実になることもあれば、地獄の夾竹桃(きょうちくとう)となることもある。その意識に、よいこと、美しいこと、許すこと、寛容であることの種を持っている人の心は、いつでも天国の庭を想起させる。このような人が、突然窃盗を行なったり姦淫を行なったり人を殺害したり、飲酒を行なったり覚せい剤を用いたり、皆を軽蔑して全てを批判したりするようなことは考えられない。これらの不適切な行動のためには、前もってよくない考え、悪い計画の一部分が存在することが前提条件となる。頭が悪い考え、無益な思考でいっぱいとなっている人が行なうことは、完全にその人の内面世界の反映によって成り立つ。だからこそ、個人個人が自分の内面世界において均整や誠実さに出会わない限りは、その外面のあり方が美しくなることはありえない。美しく見られることもないし、たとえ見られたとしてもそれは一時的なものにすぎない。
善を施すという考え
人々の心を獲得するための道のうち、最も重要なものの一つが、常に彼らに対しよいことを行なう機会をうかがい、そのような機会が与えられれば、時を逸することなく即座に善を施すことである。私たちの心を、いつでもよいことを行なおうという考えで調和させることができればどれほど素晴らしいだろうか。
人への尊重
動物は死ぬと忘れられ、その墓も失われる。しかし人はそうではない。父祖たちの記憶や墓地を守らない民族は、彼らを動物のレベルにまで落としていることに気がついているだろうか?そもそも死者への敬意は、将来のため、生きている人々に与えられた一つの保障なのだ。

Copyright (C) 2007 やすらぎweb.com.
All Rights Reserved. |