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2005年10月号
読者からのメッセージ
イスタンブールにいた頃、私の住んでいたところでは、朝は太鼓の音で始まりました。ダブルジュといわれる人たちが、太鼓を打ちながら通りをねり歩いているのです。
トルコに行く前、オスマン時代はどこにでもたいていこういう人がいて、目覚まし時計の代わりになっていたという話を聞いたことがありました。でも最近は、どこの家庭でも目覚まし時計があり、うるさいとかいらないとかいう声も多く、廃止されている地区もあるという話も聞いていました。
そういうわけで、始めてその音を聞いたときは大いに感動しました。脈々と受け継がれてきたものに触れる喜び、と表現できるかもしれません。何百年も前から、この街で、この時期になると人々が朝早く起きて断食前の食事をとっていた、ということが実感として感じられました。日本が太平洋戦争をしていた頃、大正ロマンが全盛だった頃、明治維新で人々の暮らしが激変しつつあった頃、日本に黒船が来て大騒ぎしていた頃、江戸文化が成熟し天下泰平だった頃…。
やはり歴史に翻弄されながらも、この街に生きていたそれぞれの時代の人々が今の私と同じように夜明け前におきだして食事を作っていたのだなあ、という実感です。そこから少しだけ視野を広くするなら、この街がまだラマダーンというものを知らない頃から、14世紀も前から、今の私と同じように、夜明け前に起き出していた人々が確かにいたのだ、ということの実感にもつながります。ムスリムになってこの年で3年目だったかと思いますが、こういったことをはっきりと実感できたのはそのときが初めてでした。
日中、断食を続けながらも、この気持ちを常に感じることができるようになったのもこの年からです。今、世界中のムスリムが断食をしている。100年前も、200年前も、1000年前でも、同じことをしていた人々がいた。視野を少し変えるなら、時差があるこの世界で、私が断食前の食事に起きたこの瞬間に、まだ断食をしている人々がいる。断食明けの食事を取っている人々がいる。タラーウィーの礼拝を捧げている人々がいる。時空を超えた一体感に圧倒されそうでした。
今、日本にいて、町全体を包むラマダーンの雰囲気、といったものを感じることはできません。でも、周りの人が断食してないから自分が断食するのは難しい、とは感じないのです。今この瞬間に、自分と同じように断食を行っている人々がいる。自分が寝ている時間でも、断食を続けている人々がいる。数百年前にも、同じように断食をしていた人々がいた。こういった事実に思いをはせると、この上ないほどの連帯感を感じます。今目の前に同じように断食している人がいないことなど、この一体感に比べるとほんのささいなことのように思えてきます。こういった一体感は、本来常に感じているべきものだと思いますが、常に思いをはせている、ということは私には難しいのが事実です。私にとって、ラマダーンは、これを心から感じさせてくれる月でもあるのです。

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