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2004年10月号
心を開く@(導きの過程)
物事を正しく知るためには心を開くことが大切である。アッラーを知る場合も然りである。クルアーンには何度もアッラーが我々に下されている印について書かれているが、心の眼で見ようとしない者、聴こうとしない者、心が閉ざされている者にはその真理の光が理解できない、ということも書かれている。
私自身も体験上そうだった。
私がいまムスリムとして生きているのも、アッラーの導きを感じる。今までの人生のどの出来事も必要不可欠なことで、そのうちの一つでも欠ければ今の私にはつながらなくなっていただろう。イスラームへの導きの過程も見えない糸で引っぱられているようである。
ムスリムになるに当たって何人かのムスリムとの出会いがあった。
私はムスリムになる前に某イスラーム機関でアラビア語を習っていた。あるときその先生と信仰について話す機会があった。当時私はキリスト教徒で、はじめはイスラームに対する偏見や誤解があったが、イスラームについて知るにつれ、イスラームもよい宗教だなと惹かれつつあったが、それ以上に私は“神に仕えたい、神に近づきたい”という昔ながらの思いが強く、修道生活に憧れていた。先生に「イスラームに改宗しようかなと思ったこともありましたが、やはり私は修道生活への思いが強いので、キリスト教徒をやめることは出来ません」と自分の信仰への思いを伝えた。それに対し先生は「あなたの話からあなたの信仰と神への愛を感じました。あなたと私は同じ神を信じています。
それだけで十分です。どうぞあなたはあなたの信仰を大事にしていってください」と仰られた。正直言って意外だった。改宗しようかなと思ったこともあったと言ったので、もしかしたら「今すぐ改宗しなさい」と勧められるかなと内心思ったりした。もしあの時改宗を勧められたら私は引いてしまっただろう。そんな私の心を見透かしたのだろうか。先生は異教徒に対する突き放すような言い方ではなく、思いやりに満ちた態度でそう仰った。私の心はその言葉、先生の寛容な態度により、イスラームの方にグイッと一気に引きよせられた。
そしてクルアーンの読誦クラスにも通うようになった。その頃の私はイスラーム的には好ましくない格好をしていたが、一緒に学んでいたムスリマたちは誰もそれを咎める人はなく、私を受け入れてくれた。彼女たちのヒジャーブ姿は修道女を思わせるような清楚なイメージがあった。
またその頃、友人と結婚したパキスタン人が何度か自宅に招いてカレーをご馳走してくれた。そのときも信仰の話になり、私はキリスト教の話、彼はイスラームの話をしていたが、彼も「あなたは同じ神を信じる仲間だ。同じ神を信じているから話が合いますね」とキリスト教徒である私を受け入れてくれた。
もし彼らが私を異教徒として避けたり、批判したり、冷たい態度をとっていたら私は決してイスラームに興味も持たなかっただろうし、近づこうとも思わなかったことだろう。私は彼らのようなムスリムの寛容さに惹かれてイスラームに心を開いた。そして主人との出会いがあり、改宗に至った。イスラームを知るようになって4年目のことだった。
改宗の際、アラビア語の先生が私のためにいくつかのムスリマ名を考えてくださり、それぞれの意味の説明してくださった。その中で私は“ハニーファ”を選んだ。それはクルアーンの中でイブラヒームの信仰を指して度々使われている“純正な信仰者”という意味である。私は「わたしたちとあなたがたとの共通の言葉の下に来なさい」という3章(イムラーン家章)64節から始まる啓典の民への呼びかけの部分が気に入っていた。その67節に「イブラヒームはユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなかった。しかしかれは純正なムスリム(※唯一の神アッラーに服従帰依する者の意味)であり、多神教徒の仲間ではなかったのである」と書かれており、この“純正な”のアラビア語が“ハニーファ”(女性形)である。この名前を選んだ理由は、アッラーの真理の教えはもともと一つであり、今はアッラーの教えがユダヤ教、キリスト教、イスラム教とあたかも別々の宗教のように思われているが、分派化される以前のただ一つの真理であるアッラーの教えに戻りたいと思ったからだ。私にとってムスリムになるというのはアッラーへの回帰であった。
聖書のメッセージを一言で表わすならば、「あなたの主である神に立ち帰れ!」ということだと私は理解していた。イエスが第一の掟にあげた「主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マルコ12章29-30節、申命記6章4-5節参照)ととらえていた。そしてこのメッセージはクルアーンの中にもあった。クルアーンが同じ神の啓示であることを私は認めた。全身全霊でアッラーを愛する、アッラーに服従帰依する者こそがまさにムスリムなのだ。
クルアーンには究極の唯一神信仰(タウヒード)について書かれている。不可解な三位一体説はない。“ただ唯一の神アッラーだけに仕えよ”という明快さがある。
私はキリスト教徒ではあったが、どうしてもイエスの贖罪の意味が実感できず、三位一体説にも疑問を感じていた。私の信仰が弱いためなのだと思い「どうか私の信仰を深めてください。これらの真理を私に実感させてください」と神によく祈っていたものだった。そんな時にクルアーンの112章(純正章)「かれはアッラー、唯一なる御方であられる。アッラーは自存され、御産みなされないし、御産れになられたのではない、かれに比べ得る何ものもない」を読んだ。すっきりした。これこそ私の信仰、真理だと感じた。アッラーのお導きに感謝する。アルハムドリッラー。
しかし、改宗してからの私のイスラームの信仰は順調ではなかった。アッラーは私に度々信仰上の試練を与えた。これからもそうかもしれない。しかし私は今、その試練に感謝している。なぜならその試練を通して私の信仰はより深まり、アッラーを求める思いも強くなり、アッラーの導きに感謝し悔悟してアッラーの許に帰るたびにアッラーをより近くに感じられるようになったのだから。以前はもしかしたら神はいないかも知れないと思うこともあったが、今は神の存在を疑うことはない。私の身に起こったいろいろな出来事を通して、私は身をもってアッラーの存在を感じている。信仰を確立するために私にはそれらの試練が必要なことだったのだと理解している。
改宗と同時に結婚し、主人の仕事の関係でサウジアラビアに住んだ。サウジに行ったらクルアーンの暗誦クラスやイスラームの勉強会に参加したいと意気込んで行ったが、交通手段もなく、またすぐに2人の子供を妊娠出産したので時間的余裕もなかったし、結局その機会はなかった。サウジというイスラーム世界にいながら、イスラームのことを学べなかったことは今思えばとても残念だったと思う。
私はまだシャハーダしたばかりで、イスラームについてよく知らないままにサウジに行ったので、人の言うことに一喜一憂して、嫌な思いもした。時々モスクに行けば“ハラーム(禁忌)!”と連発する人がいたり、異教徒に対する排他的な態度、不寛容さを見るにつけ、最初に抱いていたイスラームのイメージとは大きく異なり、なんだか騙されたような気分になった。
特にかつてキリスト教徒だった私にとって、他人に向かってハラームを連発する人はイエスがもっとも嫌ったパリサイ派や律法学者の姿と重なり、嫌悪感すら感じた。外見はきちんと戒律を守っているけど、マナーが悪かったり、思いやりに欠けるムスリムたちを見るにつけ、しだいに私の心は閉ざされていった。心が閉じていると、嫌なことばかりが目につくようになるし、嫌なことばかりが起こる。今思えば、結局のところ私の自我(ナフス)に問題があり、私の心が閉じていたのが原因で、よい出会いもなかったのだろうが、ムスリムになってから数年間は、神への思いや内面の信仰を深めるような話を聞いたこともなかった。
私の心は満たされない気持だった。“あー、私は騙されたのだろうか?キリスト教のほうがよかった。イスラームは戒律ばかりで愛がない。イスラームには深いものがない、ただの形式主義ではないか”、と私のイスラームへの反発は強くなり、本気でイスラームをやめたいと思い、泣いて主人に訴えたこともあった。そんな時主人は「あなたはまだイスラームを知らない。ムスリムの行動を見て判断するのではなく、イスラームの教えそのものを見て判断してほしい」と言って、度々クルアーンやハディースの言葉を紹介し、それを読むように勧めた。主人がイスラームに精通している人でよかった。主人でなければきっと私はイスラームから離れていったかもしれない。そういう主人と出会わせてくれたアッラーの導きに感謝だ。
しかしその頃の私はそのたびにイスラームにもよい言葉はあるのかと思いとどまったが、傲慢にも私にとってはそれらの言葉は聖書の言葉と同じ内容だったので何ら新鮮さを感じず、また私の心は閉ざされていたので、クルアーンを読んでも嫌な言葉や疑問を感じる言葉にばかりひっかかり、あら探しをしているような読み方をしていたので、ただ字面を追っているだけでクルアーンの言葉が全然心に響かなかった。日本語訳のハディースは本棚にあったが、手にとって読もうという気になれなかった。
このようにイスラームに批判的で心が閉ざされている状態がしばらく続き、メッカにウムラにいった。改宗して3年目だった。本当にこのウムラはアッラーの恩寵であった。このウムラをきっかけに当時2歳だった長女が礼拝するようになり、また私の心にも変化があった。
カーバで世界中から集まったムスリムたちが一糸乱れず礼拝する姿を見て、またそこに自分も参加することによって、共同体としてのムスリムパワーを感じ、またアッラーを求める純粋さを感じた。彼らと共に礼拝する中で、私は自問自答した。
“私はここにいる資格があるのだろうか?私には彼らのような純粋な信仰がない。ムスリムとしてイスラームを生きていない。私はまだイスラームのことを何も知らない。それなのに表面的なことだけ見て嫌だと判断していた。私はまだイスラームを生きていない。まだムスリムとはいえない。何も知らないのに批判する資格はないな”と気づき、先ずはイスラームの教えそのものを知ろう、ムスリムとしてイスラームを受け入れて生きてみよう、その上でやっぱりここはおかしい、納得できないと思ったらその時批判しようと思うようになり、心を開いてイスラームを知ろう、イスラームを受け入れようと思うようになった。
結局の所、私の心を開いてくださったのはアッラーであり、アッラーのお恵みがあったからこそ、私も心を開こうと思うようになったのだ。アルハムドリッラー。
人間というのは気持の持ち方、心のありようで、本当に変るものだ。それまでクルアーンを読んでも疑問を感じる言葉にひっかかってばかりで、全然心に残らなかったが、心を開いてからは不思議なもので、クルアーンの言葉が素直に入ってきて、心に響く言葉にたくさん出会い、言葉が心に残るようになった。
ハディースを読んでみたら、“眼からウロコ”というより、“心からウロコ”という感じだった。もっと早くにハディースを読んでいればよかったと後悔した。
またサウジアラビアのイスラームの雰囲気など良い所もたくさん見つけられ、帰国する頃にはもっとサウジにいたい、あと20年ぐらいいてもいいな、と思うようになった。
「聞く耳のあるものは聞きなさい」ということばがある。耳はだれにでもついているが、その耳で何を聞いているかが大切なのだ。
審判の日、自分の耳がその聞いてきたことを証言する、自分の目がその見てきたことを証言する、自分の心がその思ってきたことを証言する。真理を全身で知る(感じる)ためには、(心の)眼が開かれていなければならない、(心の)耳が聴こうとしなければならない、心が開かれていなければならない。全身全霊がアッラーに向かって開かれていなければならない。よくある人は「自分には神を信じられない。感じられない。」というが、それはアッラーに向かって心が開かれていないからだと思う。心に蓋をしているから、あるいは心が自我(ナフス)で満たされているから真理が入っていかない。
結局イスラームを受け入れるか受け入れないかは心が開かれているか開かれていないか、が大きなポイントであると思う。
コップに蓋がしてあれば水はコップの中に入っていかない。あるいはコップの中が別のものでいっぱいになっていれば新しい水はコップの中に入らずに外にこぼれてしまう。それと同じで、心が閉じている人や心が自我で満たされている人はいくら真理の言葉を聞いてもそれが心の中に入っていかない。心を開いた人はアッラーの真理の光がどんどん差し込む。
まだまだ日本ではイスラームは未知の宗教だ、誤解もある。イスラームの良さを伝えたいと思う。
私ができることはなんだろうか?
いろいろダアワについて考えたが、最近はムスリムとして正しく生きること、信頼されるムスリムになることが1番のダアワかなと思うようになった。
ハディージャやアブー・バクルなど初期のサハーバたちが入信したのも、預言者(SAW)が信頼できる人だったからこそ、“彼の言うことだったら間違いはない”、“あなたの言うことを信じます”というふうに入信していった。
私が入信する時に出会ったムスリムたちのように、相手の心を開くような親切、寛容な態度や言葉で人に接することも大事だと思う。そのためには自分の魂を良くし、信仰を深めると共に、良い性格を身に付けないといけないだろう。
預言者(SAW)はタクワー(アッラーへの畏れ)の最高のモデルと同時に人への接し方の最高のモデルでもあった。預言者(SAW)はその優しさ、寛容さ、慈悲深さ、誠実さから、誰からも信頼され、慕われていた。「あなた[聖預言者]がかれらを優しくしたのは、アッラーの御恵みであった。あなたがもしも薄情で心が荒々しかったならば、かれらはあなたの周囲から離れ去ったであろう」(3章(イムラ―ン家章)159節)、「今、使徒があなたがたにあなたがたの間から、やって来た。かれは、あなたがたの悩みごとに心を痛め、あなたがたのため、とても心配している。信者に対し優しく、また情深い」(9章(悔悟章)128節)。
イクリマが入信する時のことを想い起こしてみよう。
預言者(SAW)は最大の敵の一人だったイクリマが入信するためにメッカにやってくるとき、サハーバたちに彼の父アブー・ジャハルの悪口を禁じられるほどイクリマの心を気遣った。また彼がやってきたときには「ようこそ、ヒジュラの旅人よ」とヒジュラ以来使われたことのない賛辞で彼を迎え入れ、彼の罪を許し寛大な態度で接した。そういう預言者(SAW)の寛容さ、心配りにイクリマの心は固い氷が溶けるように開かれ、真理を受け入れた。私たちはこのような預言者(SAW)の人への配慮を倣わなければならない。
願わくは私の態度が人の心を閉ざしてしまうようなムスリムのモデルになりませんように。
(次回に続く)
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・本当に明証が、あなたがたの主から下ったのである。だから目を開く者は自分の魂を益し、目を閉ざす者は自分の魂を傷つける。(家畜章6/104)
・耳を傾ける者だけ、呼びかけに答えるであろう。(あえて聞かない)死者は、アッラーがこれを甦らせ、それからかれの御許に帰らせられる。かれらは言う。「何故かれに、主から印が下されないのであろうか。」言ってやるがいい。「アッラーは、確かに印を下す御力を持っておられる。だがかれらの多くは、理解しないのである。」(家畜章6/36-37)
・凡そアッラーが導こうと御望みになった者は、イスラームのためにその胸を開く。(家畜章6/125)
・かれらは心を持つがそれで悟らず、目があるがそれで見ず、また耳はあるがそれで聞かない。(高壁章7/179)
・かれらは心に悟りが開けるよう、またその耳が聞くように、地上を旅しなかった。本当に盲人となったのは、かれらの視覚ではなく、寧ろ胸の中の心なのである。(巡礼章22/46)
・かれこそは、あなたがたのために、聴覚と視覚と心(知覚、理解力)を創られた方である。だがあなたがたは、感謝しない。(信者たち章23/78)
・かれらが(審判の席に)来ると、その耳や目や皮膚は、かれらの行ってきたことを、かれらの意に背いて証言する。(フッスィラ章41/20)
・かれらは頭上の天を見ないのか。われが如何にそれを創造し、如何にそれを飾ったか。そしてそれには、少しの傷もないと言うのに。また、われは大地をうち広げ、その上に山々を据え、様々の種類の美しい(草木)を、生い茂らせる。(それらは)悔悟して(主の御許に)返る凡てのしもべが、よく観察すべきことであり、教訓である。(カーフ章50/6-8)
・地上には信心深い者たちへの種々の印があり、またあなたがた自身の中にもある。それでもあなたがたは見ようとしないのか。(撒き散らすもの章51/20-21)注】精神的眼光さえあれば、あらゆる事物の中に、アッラーの明瞭なしるしを見ることができる。
・かれらは言う。「あなたがたは正しく導かれたいならば、ユダヤ教徒かキリスト教徒になりなさい。」言ってやるがいい。「いや、わたしたちはイブラーヒームの純正の教えを信奉する。かれは、多神教徒の仲間ではなかった。」(ムスリムよ祈って)言うがいい。「わたしたちは、アッラーとわたしたちに啓示されたものを信じます。またイブラーヒーム、イスマーイール、イスハーク、ヤアコーブと諸支部族に啓示されたもの、とムーサーとイーサーに与えられたもの、と主から預言者たちに下されたものを信じます。かれらの間のどちらにも、差別をつけません。かれにわたしたちは服従、帰依します。」(雌牛章2/135-136)注】純正[ハニーフ]は、正しい所信、正説、完全に調和した真実の意である。ユダヤ教、キリスト教は、多神教ではないが後に間違った考えに走り、キリスト教も三位一体説をあみ出したりして純正なイブラーヒームの道からはずれてしまった。ムスリムはイブラーヒームのハニーフの教義、真の主への信仰の中に生きなければならない。
・(ユダヤ教徒やキリスト教徒たちに)言ってやるがいい。「あなたがたは、アッラーに就いてわたしたちと論議するのか、かれはわたしたちの主であり、またあなたがたの主であられる。わたしたちにはわたしたちの行いがあり、あなたがたにはあなたがたの行いがある。わたしたちは、かれに誠を尽くします。またあなたがたは、『イブラーヒーム、イスマーイール、イスハーク、ヤアコーブ、とその諸支部族が、ユダヤ教徒またはキリスト教徒であった。』と言うのか。言ってやるがいい。『最もよく知る者は、あなたがたなのか、それともアッラーであられるのか。アッラーから下された証拠を持ちながら、それを隠すよりも酷い不正があろうか。』アッラーは、あなたがたの行うことに無頓着な方ではない。」(雌牛章2/139-140)
・善いことを行う者は、それと同じようなものを10倍にして頂ける。だが悪いことを行う者には、それと等しい応報だけで、かれらは不当に扱われることはないであろう。言ってやるがいい。「本当に主は、わたしを正しい道、真実の教え、純正なイブラーヒームの信仰に導かれる。かれは多神教徒の仲間ではなかった。」(祈って)言ってやるがいい。「わたしの礼拝と奉仕、わたしの生と死は、万有の主、アッラーのためである。かれに同位者はありません。このように命じられたわたしは、ムスリムの先き駆けである。」言ってやるがいい。「アッラーは凡てのものの主であられる。わたしがかれ以外に主を求めようか。」各人はその行いに対する以外に、報酬はないのである。重荷を負う者は、外の者の重荷を負わない。やがてあなたがたは、主の御許に帰るのである、その時かれはあなたがたの争ったことに就いて、告げ知らせられる。(家畜章6/160-164)
・「わたしたちは、自分たちに下されたものを信じ、あなたがたに下されたものを信じる。わたしたちの神(アッラー)とあなたがたの神(アッラー)は同じである。わたしたちはかれに服従、帰依するのである。」われはこのように、あなたに啓典を下したのである。それで、啓典を与えられている者は、この(クルアーン)を信じる。(蜘蛛章29/46)
・あなたがたには、あなたがたの宗教があり、わたしには、わたしの宗教があるのである。(不信仰者たち章109/6)
・宗教には強制があってはならない。(雌牛章2/256)
・「アッラーと審判の日を信ずる者は、良き言葉のみを語るか、さもなければ、沈黙を守りなさい。また、アッラーと審判の日を信ずる者は、隣人に対し寛容をもって接しなさい。そしてまた、アッラーと審判の日を信ずる者は、客人に対し十分な親切を尽くしなさい」(「サヒーフ ムスリム」第1巻p.56)
・「あなたはこれから啓典の民らの地域に赴くのであるが、先ず最初に彼らに説くべきことはアッラーへの信仰で、彼らがこれを十分理解したならば、一日5度の礼拝が課せられていることを説き、更に、これが守られるようになったならば、アッラーが彼らにザカートを義務として命じており、これは富裕者より集め貧者に分配されることを話しなさい。そしてこれに彼らが納得したならば、ザカートを集めなさい。ただし、彼らの最も大切な品々までザカートとして徴収するようなことがあってはなりません。」(「ムスリム」第1巻p.41)
・アッラーの使徒は教友の一人を彼の代理人として派遣するときはその教友に次のようにいったものでした。アッラーの福音だけを人々に伝えなさい。決して人々に宗教に対する反感を抱かしてはならない。人には寛仁をもって接し、決して無理なことを押しつけてはならない。・・・
人には寛仁をもって接し、決して無理なことを押しつけてはならない。人には慰安を与え、決して宗教に対して反感を抱かせてはならない。(「ムスリム」第2巻p.774)

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