2003年9月号 

宗教的行為は他の何ものでもなく意志によって決まる(先月よりつづき)

移住


ここで、このハディースにおいて「移住」(ヒジュラ)に特別な重要性が与えられることも見逃してはいけない。預言者ムハンマドは「マッカの制圧以後はヒジュラはない」 と言われている。ここで「移住」とは預言者モハンマドがマッカからマディーナへ移住したことという意味であり、固有のものとしての移住は終了した。しかし、普遍的な意味での移住は続いており、最後の審判の日までも続くであろう。なぜなら移住は、「ジハード」(アッラーの道のために奮闘努力すること)の双子の兄弟のようなものであるからである。共に生まれ、共に生きるのだ。預言者ムハンマドはこのように言われている。「ジハードは最後の審判の日まで続くであろう」


そう、母から、父から、親友から離れ、必要とされている地域へ、正義と真実を説くために故郷を捨てて出向く布教者たちは決して終わることのない移住を続けているのであり、当然その見返りは与えられるであろう。


しかし別の観点から、アッラーと使徒のために行なわれる移住に対して与えられる善行の価値については、明らかにされていない。おそらくは、このような宗教のための行動の価値はあの世において驚くほどのものであることを示しているのではないか。天使はその行動をそのまま記し、その褒美はアッラー御自身が評価されるのである。


このハディースの最初にある〔イッネマー〕という単語は「(他のものではなく)、ただ…である」を意味する。それで、この文の意味が「行為はただ意志があってのみ宗教行為となる」となるのである。つまり、意志を伴わない宗教的行為は決して承認されないという意味になる。人が意志のないまま千回礼拝しても、何年も断食を続けても、財産の全てを捧げたとしても、巡礼に行ったとしても、この人は礼拝をしたことにもならなければ断食をしたことにもならず、喜捨をしたことにもならず、また巡礼をしたことにもならないのである。つまり、これらの行動を宗教的行動と成しているものは人間の意志である。


罪からの移住


ここでのテーマにもう一度向き直ってみるなら、預言者ムハンマドはまず、意志といった広い意味を持つ事柄について三つの文で解説をされている。それから、移住といったこれも広い意味を持つ事項についても、二、三の文でそれを示されている。罪から遠ざかるための移住から始まって、審判の日まで続くアッラーの道のための移住まで、全ての移住、聖遷についてこれほどわかりやすく、的を得た表現で、しかもそれをこれほどの短さの中に凝縮させて語ることは、ただ預言者ムハンマドにのみ可能なことである。


ここで次のことを述べたい。最も偉大な移住者は、罪から遠ざかり、アッラーへの愛以外の全ての愛をその心から拭い捨てた者である 。


ある日、イブラーヒーム・ビン・アドヘム(757年)が巡礼中にアッラーに次のように祈っていた。「アッラーよ、あなたへの愛に私は虜になりました。あなた以外の全てを捨ててあなたのおそばに来ました。あなたを拝見してから、私の目は他の何をも見なくなりました。」彼がちょうどこのようなお祈りで満ち溢れ、それがもたらす精神的な雰囲気の中にある時、彼はカアバの片隅に息子の姿を見た。息子も彼を見つけた。何年も会わなかったことから来る恋しさは、二人をお互いに向かって走らせた。ちょうど抱擁しようとした瞬間に、小さな声が聞こえた。「イブラーヒームよ、一つの心に二つの愛は同居しない。」ここでイブラーヒームはまた別の感情を持つ。「私の愛情を妨げるものを取り上げてください、アッラーよ!」と、息子を足で蹴倒したのであった。

 


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