|
2004年10月号
断食斎戒(サウム)の秘密
前号では、「特別な人、つまり正しき人たち(サーリフーン)のサウム」を達成させるのに欠かせない六つの事柄のうち、三つまでを紹介するにとどまった。簡単なおさらいして、続きを見てゆこう。
ひとつ−見るべきではないものすべてから、目を閉ざし、見たいという欲求を抑えること。
ふたつ−ばかげた話や嘘、陰口や悪口から舌を守ること。
みっつ−耳にすべきでないものすべてから、耳を守ること。
よっつ−身体の残りの器官を罪から守ること。手足を避けるべき行いから、そしてお腹を断食明けの食事(イフタール)時に口にしてもよいものかどうか紛らわしいものから守ることである。ハラールな(許されている)食べ物を断つのがサウムなのだから、ハラーム(禁じられている)なものでそのサウムを解いていては、何の意味もなくなってしまうはずだ。たとえて言えば、この種の断食者は、城を築き、都市全体を壊す者に似ている。ハラールな食べ物も、質はよくても量を取り過ぎれば害となってしまうが、サウムはその食事を減らすためにあるのだ。副作用を恐れて薬の取り過ぎを避け、少量の毒を飲む者は愚か者である。まさにハラームは宗教を台無しにしてしまう毒であり、ハラールは少量であれば役に立つ薬となるが、取り過ぎは害をもたらすものである。サウムの目的は、そのハラールを摂取する量を減らすことにあるのだ。
預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)は言われている。「飢えと乾きしか得られないサーイム(断食者)の何と多きことでしょう。 」
つまりそれはハラームで断食を解く者のことだとも、ハラールを断っておきながら、陰口を言うことで人々の肉によって断食を解く者のことだとも、あるいは身体の諸器官を罪から守らなかった者だとも言われる。
いつつ−断食明けの食事(イフタール)時に、お腹がいっぱいになるまでハラールの飲食物を取り過ぎないこと。ハラールでいっぱいに満たされたお腹以上に至高のアッラーにとって腹立たしい器はない(訳注−お腹も「器(ウィアーゥ)」の一種だから)。断食をしていた者が日中食べ逃したものをイフタール時に取り返していたら、アッラーの敵を打ち負かし、欲望を克服するといった目的を、いったいどうやってサウムを通して達成できようか。さらにはもっと贅沢をするかもしれない。
事実、他の月には食べないようなあらゆる食べ物をラマダーンのために蓄えるという習慣すらできたくらいである。ご存知の通り、サウムの目的はお腹を空っぽにして欲望を克服し、さらなるタクワー(アッラーを畏れる気持ち)を養えるよう自我を強くすることである。ところがその自我がもし日中欲を刺激され、願望を強めた上で美味しいものをご馳走され、満腹になったとしたら、その欲望はますます強くなるばかりとなる。そうなってしまえば、最初から断食などせずにいたほうがまだましというものだ。そもそもサウムの精神とその秘密は、悪へ悪へと引き戻そうとするシャイターン(悪魔)の手段となる要素を弱めることにあり、そのためには欲を少なくするしかない。つまりたとえサウムをしていなくても、夕食の量を今まで食べていたよりも少なめにすることが肝心である。それを日中食べなかった分まで夜にまとめて食べていては、サウムの効果は得られないであろう。
それどころか、礼儀としては日中寝過ぎないことも大切である。飢えと乾きをしっかりと実感し、物欲が弱められるのを感じることで、心が清められるからだ。そして毎晩ひと時は物欲を抑えるよう習慣づけることで、深夜の礼拝(タハッジュド)やアッラーを思念すること(ズィクル)も楽になるであろう。そうすればきっとシャイターンが心をつきまとうこともなく、天を仰げばそこに真理の開示を垣間見るといった恩寵にあずかることもあるかもしれない。それゆえ自分の心と胸の間を食べ物袋とする者は、心眼が覆われてそうした神秘の一端を目にすることができない。またお腹を空っぽにする者も、覆いをはらい上げるにはそれだけでは十分とは言えず、至高のアッラー以外のものに対する興味関心をも空っぽにしなければダメである。肝心なのはそれに尽きると言ってもよく、すべての基本は食事を少なめにするということだ。
むっつ−断食明けの食事(イフタール)を済ませたあと、自らの心を恐れと希望で困惑させ続けること。自分のサウムが受け入れられるか、拒絶されるか分からないからである。またサウムに限らず、イバーダ(崇拝行為)のあとはいつもそうあろうとするのがよい。
アル=ハサン・アル=バスリー に伝わるところでは、あるとき彼は大笑いする人たちのもとを通りかかったという。
「至高のアッラーは、ラマダーン月を人間がアッラーへの忠誠において競い合う競技場とされた。ある者たちは勝ち組となり、また他のある者たちは負け組みとなった。驚くべきは先んじた者たちが勝ち、遅れをとった者たちが負けた日にふざけて笑う者である。もしアッラーが幕を開けたなら、善人は善行に勤しみ、悪人は悪行にふけるのを目にしたであろう。つまり(善人にとっては)行いが受け入れられた喜びでふざけている暇などなく、拒絶された者の喪失感は笑う気をどこかへやってしまうのである。」
アル=アハナフ・ブン・カイス によれば、誰かにこう言われたという。
「あなたはもう高齢のご老人。スィヤーム(断食)は大変でしょう。」
「私はスィヤームを長旅のようなものとみなします。それに至高のアッラーに仕えるなかでの辛抱(サブル)は、かれの懲罰のなかでの辛抱よりも楽なものです。」
そう、これがサウムの内面的意味である。
ひょっとすると、あなたはこう尋ねるかもしれない。
「食欲と性欲を抑えるにとどまり、もろもろの意義には関心を払わなかった者も、法学者が言うには『その人の断食は正しい』ということですが、いったいそれはどういう意味でしょうか?」と。
知っておいていただきたいのは、表面的なことに重きをおく法学者たち(フカハーゥ=ッ=ザーヒル)は表面的な条件を決定させるにあたり、先にあげた内面的な条件を決定づける根拠よりも弱い根拠で決定付けてきたということである。特に陰口とその類に関しては顕著な例であるが、そもそも表面的なことに重きをおく法学者が導き出すもろもろの義務や条件は、あくまでもこの世での生活に忙しい一般大衆が耐えられるものに過ぎない。
一方、来世に重きをおく学者たち(ウラマーゥ=ル=アーヒラ)が強調するのは、受諾の条件であり、受諾によって真の目的に達することである。それゆえ彼ら来世に重きをおく学者たちは、サウムの目的が至高のアッラーの道徳倫理(アフラーク)を身につけることにあるということをよく理解している。すなわちそれは本来の目的を常に見据えて行動することであり、できるだけ天使たちに見習って欲望を抑えることである。かれら天使たちは欲望とは無縁の存在だが、人間は理性の光によって欲望を克服できるがゆえに動物よりは上の位にあり、欲望に打ち勝つには努力を要する分だけ天使たちよりは下の位にある存在である。それゆえ人間は欲望に溺れれば溺れるほど最低最悪の存在にまで堕ちて行き、獣と同類になってしまうが、逆にまた欲望を抑制すればするほど最高最善の存在としての高みに昇り、天使と同類になれる。天使たちは至高のアッラーと非常に近い存在であり、かれらを見習って、かれらのように振舞う者は、かれらのように至高のアッラーとお近付きになれるであろう。近しい者に似た者もまた、近しいものだからである。もちろん、ここでいうアッラーとの「近さ」とは、場所ではなく、性質においての近さであるのは言うまでもない。
≪訳注−内容的に繰り返しが続くため、一段落割愛させていただく。≫
食事や夫婦間の契りから身を制しながら、罪の入り混じったかたちで断食を解く者は、ウドゥー(礼拝前のお清め)で各部位を3回ずつ濡れた手でなでるだけの者に似ている。サウムの意味と秘密を理解した者はそう知るであろう。つまり表面的には(数から言っても)条件を満たしてはいるが、より大切な「洗う」という行為を省いてしまった者の場合。アッラーがお望みになれば、この者の礼拝も最低基本条件は満たしているがゆえに受け入れてはもらえるだろうが、より大きな徳(ファドル)を逃してしまったのは確かである。一方、ウドゥーの各部位を3回ずつ洗う者は、基本と徳(推奨行為)をともに満たしたといえ、またそれこそが完璧な状態なのだ。
預言者さま(アッラーの祝福と平安あれ)は、かつてこう言われたという。
「サウムは信託(アマーナ)です。ですから皆さんはそれぞれ自分の信託を守るようにしなさい。
そして『まことにアッラーは汝らが信託として預けられたものを、元の所有者に返すことを命じられる。』(第4アン=ニサーゥ章58節)というアッラーの御言葉を読み上げてから、手を耳に置き、目に置いて言われた。「聴覚は信託であり、視覚も信託です。
」つまりもしそれらがサウムに託された信託でなかったならば、「私は断食の身です、と言いなさい。(つまり、私は舌を守るために制しているのに、あなたの愚かしい誘いに応えるために舌を解き放ちなどしようか、という意味)」とは預言者さまも言われなかったはずである。
以上、すべてのイバーダには表面的なものと内面的なものがあり、皮と実があるということがお分かりいただけたであろう。さらにその実には段階があり、それぞれの段階にはさらなる階層がある。
皮で実を覆い隠すのか、あるいは実を取る真理の探究者に加わるのか。
果たしてあなたはどちらを選択するだろうか。(「宗教諸学の復活」1/314〜317より)
ガザーリー師の「サウムの秘密」、いかがだっただろうか。冒頭でムスリムを三種類に分け、「普通の人、特別な人、特別な人の中でもさらに特別な人…」と論じ始めたときには、正直言って「私は凡人に過ぎないから、あまり関係ないのでは…」と思ってしまった。サウム本来の目的を達成するための具体的なアドバイスが述べられている六つの項目に関しても、「特別な人、つまり正しき人たちのサウム」とあったので、個人的は関係のない理想論が展開されるのかと思った。ところが実はそうでもなさそうである。もちろん私たちの多くは凡人の域を超えず、「正しき人」になどいつなれるのか分からない状態にあるのが現実だが、「正しき人」になりきっていないからといって私たちの成長に役立つアドバイスをみすみすやり過ごしてしまうのは、あまりにももったいない話だ。
要はアッラーのお力添えを祈りつつ、志しを少し高く持てば、私たちの誰もが「正しき人」を目指しながらムスリムとしての日常生活に生かせるアドバイスではないだろうか。
そうやって改めて読み直してみると、身につまされる思いのする点がいくつもある。中でも、「食事は少なめに」という忠告は耳が痛いくらいだ。でも今年は、イスラームに導かれて11回目のラマダーンである。分かってはいるけどやめられない…そろそろそんな自分にも真剣に「喝!」を入れなければ…そんな気持ちにさせてくれたガザーリー師のアドバイス、皆さんはそれぞれどんな風に受け止められただろうか。
慈悲深き我らの主アッラーが、皆さん方にとって今年のラマダーンを今まで以上に有意義で、幸多く、祝福に満ちたものとしてくださいますように。アーミーン。

Copyright (C) 2004 やすらぎweb.com.
All Rights Reserved. |