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2006年11月号
言葉を受けとる者、言葉は受けとるもの
電車に乗っていて思ったことがあります。
ある日の電車の中。まさしく今どきの若者といった格好の男の人が、携帯電話で話していました。大きな声で話しているので、内容が周りにまるきこえです。私も、別にききたくはないのですが、声が大きすぎて勝手に話が耳に入ってきてしまいます。
どうやら、別れ話のようです。しかも、その男の人は、別れ話を切り出しているのではなくて、切り出されている方のようです。つまり、ふられている最中のようです。だからこそなのでしょう、男の人は、もう必死です。声もますます大きくなっていきます。動揺、そして哀願、ニュアンスが全部伝わってきます。全然関係の無いはずの私が、きいているだけであまりにも切なくて、思わず耳を塞ぎたくなるような展開です。
電車の中の携帯電話での通話は、「迷惑行為」と言われていますが、あれは迷惑というより、本人が一番恥ずかしいのではなかったのかと思います。
またある日の電車の中。少し離れたところで、若い女性が話しているのがきこえます。相手の声が全然聞こえないので、最初は電話かな?と思いましたが、きいているうちに、何となく違う気がしてきました。人影に隠れていた相手の人が見えて、やはりその人は電話で話しているのではなかったと分かりました。相手の人の声が低くて、必要最低限のあいづちしか打っていなかったので、まるで一人で話しているようだったのですね。
でも、一人で話しているようなのに、何となく電話ではないと思った、その何かは何なのだろう?とふと思ったのです。そこで考えてみたのですが、それは、話をきいてくれる人が近くにいる、ということが、一つの要因になっているのではないかなと思うのです。
もちろん、別れ話ということ自体が特別なものなのかも知れません。でも、同じ電車の中で、電話で話している人の言葉は、一部が分散してあたりに飛んでしまっている感じがしました。だから、関係の無い私も、その言葉を受信してしまって、あるいはその背後の思いまで何だかよく分からないうちに一部キャッチしてしまって、耳を塞ぎたくなるほど切なくなってしまったのかも知れません。
一方、相手の人がいる場合の言葉は、思いまで含めてちゃんとその人が全部受けとめてくれているので、こちらは安心していられます。あるいは、受けとめてくれる人が近くにいるから、もともと、発信する人もその人が受けとめられるように言葉を選び、思いの出し方を選んでいるからかも知れません。
私もやすらぎに文章を書いている時、読者のあなたに届くようにとなるべく心がけるようにしています。でも、ワーワーと分散した言葉ビームになってしまわないよう、気をつけようと思います。
*今回のエッセイのタイトルは、THE PLAN9 第12回本公演 『サークルS:星を観るものと、星になるもの』に発想を得ました。

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