2006年9月号 

ラマダーンについて

 

8月号の「やすらぎ」で特に印象に残った一文がある。


「そもそも、信仰する人にとって、人の生きる時間はラマダーン月のようであり、成年期は断食開始の時間、死は断食明けの食事の時間である。一ヶ月のラマダーンは、生涯続くしもべとしての斎戒への練習のようである。30日間で獲得したすばらしい性質を一生維持することができる人は、ここで少々空腹やのどの渇きを味わう代わりに、あの世において『わがしもべたちよ。あなた方はしばしば、顔色が悪かったり、目が落ち窪んでいたりしていた。私の為にこれらに耐えていた。過ぎ去ったあの日々のかわりに、今こそ食べなさい。飲みなさい。』という呼びかけを聞くだろう。そしてその日、真の「断食明けの食事」をとるだろう。」


これを読んで大いに反省したことは、今までの自分にとってラマダーン月とは特別な存在であり、ラマダーン月のあの満ち足りた夜の気分、静かに月の形を仰いだり、「今この瞬間にも世界各地で断食が続けられている。」とムスリムとしての一体感を感じたりするのはあくまでもラマダーン月に特有のものである、というような見方をしてきたこと。ラマダーン月の最後の日になると「ああこれで今年のラマダーンも終わった。」と既に過去の存在となり、ラマダーンが再び近づいてくるとようやく「ああ今年もラマダーン月が来る。」と思い出す、といった繰り返しだった。

 

ラマダーン月に含まれる英知によって、ラマダーン中は普段よりも創造主の恵みを実感し、感謝し、熟考し、自我の鍛錬を行なうことができる。自分の無力さを認識し、アッラーに庇護を求める、ということがどういうことなのか改めて理解することができる。クルアーンをがんばって読んでみたり、長い時間をかけて礼拝を行なったりする。


しかしラマダーンが過去のものとなると同時に、これらのことも過去のこととなり、普段の自分に戻ってしまう。そして「ああなんだかラマダーンが終わって寂しくなったな。」と感慨に耽ったりする。


ラマダーンが終わるたびに毎年感じるこの寂しさのようなもの、そしてラマダーンが近づいてくるたびに毎年感じるこの喜びと厳かな気分こそ、私の自我に警告を与え続けてきた私の魂の本髄の部分の声だったのだろうと思う。


「人の生きる時間はラマダーンのようである。」


ラマダーンの英知を考えながら読むと、この一文は更なる深みを帯びる。人の一生は鍛錬であり、のどの渇きや空腹など、忍耐を要するものでもあり、一方で創造主の恵みを実感し、感謝し、熟考できる場でもある。ウンマとしての一体感を感じさせる多くの機会もある。そしてこれらをより深めることのできる最大の機会こそが、ラマダーン月なのだ。「30日間で獲得したすばらしい性質を一生維持する」努力すらしていなかった私には、ラマダーン月の恵みと英知を真に理解することはできていなかった。一ヶ月のラマダーン月は、人生という大きな「ラマダーン月」における練習、鍛錬、そしてよりよくそれを生きるための補助であり、その存在自体が恵みであり、英知であり、そこにはまた無数の恵みと英知が含まれる。だから、ラマダーン月が終わるや否や来年のラマダーン月を楽しみに待っているような生き方を改め、この一ヶ月で獲得したものを継続させる、という努力が必要だと心から思った。

断食は、人間の社会生活に関しても多くの英知を秘めており、そのうちの一つが次のものである。


人は、この世での生活においてさまざまな状態に創られた。真の主は、そういった違いによって、裕福な者が貧しい者に手を差し伸べるよう招かれておられるのだ。裕福な者は貧しい者の辛い状況やひもじさなどを、この断食において空腹を感じることによって、確かに感じることができる。もし断食といったものがなければ、自己に執着する金持ちばかりになり、ひもじさや貧しさがどれほど辛いものか、彼らがいかに憐れみを必要としているか、ということを把握することはできないだろう。こういった、人の同類である人に対する憐れみは、真の感謝の基本でもある。誰であれ、自らよりもさらに貧しい状況にある人を見出すことはできる。その人に対する憐れみは彼の義務である。もし、自らの自我にこういったひもじさを味あわせることがなければ、憐れみによって助け合いの義務のために援助をすることができなくなる。それを行ったとしても、あるべき形ではできない。なぜならその真の状況を、彼の自我は感じてないからである。


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ラマダーンにおける断食は、自我の鍛錬という点でも多くの英知を秘めており、その一つは次のとおりである。


自我、自己の欲望というものは、自由で思い通りにあることを望み、またそのように認識している。自分が全ての物を与え、導くことのできる存在であるかのように妄想し、思い通り気ままに振るまうことを望む。それはその特質でもある。無限の恵みによって導かれてきたことを考えたがらない。特に、この世において富や権力を持っていて、その上に不注意さまでが加わるのであれば、強引に、強盗のように神の恵みを奪いつくすようになる。


しかし、ラマダーン月においては、最も裕福な者から最も貧しい者まで、全ての人々の自我は、次のことを知ることになる。すなわち、自分は王ではなく、その民である。自由気ままなのではなく、しもべである。命令されない限り、どんなにささやかで容易なことでも行えない。その手を水に伸ばすことはできない。自分が全能であるかのような妄想は打ち砕かれ、しもべとしてあるようになる。真の義務である、感謝を行なうようになるのだ。


 

 


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