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2005年12月号
崇拝、しもべであること、深い信仰
アッラーのしもべであること、信仰を同義と見る人々もいますが、多くの学者はそれぞれ異なる意味と奥深さを持っていると考えています。イバーダ(崇拝)は日常の生活の中でアッラーの命令に従い、アッラーのしもべであるための義務を果たすことを意味するのに対し、ウブダ(しもべであること)はしもべであるという意識を持って生きることと解されています。そのため、宗教的義務を遵守している人はアビドゥ(崇拝者)と呼ばれ、しもべであるという意識の中に生きている人はアブドゥ(しもべ)と呼ばれています。
崇拝としもべであることにはもう一つもっと微妙な違いがあります。崇拝行為はすべての経済的実践的義務から成り、十分な財力と身体的能力を必要とし、容易には達成されず、畏怖と希望をもって、アッラーにお喜びいただきたいという意思によるものです。(たとえば、日に5回の礼拝、断食、喜捨、マッカへの巡礼、犠牲の提供、アッラーの名前の言及や朗誦などです。)しかしながら、アッラーのしもべはこれらの責任や崇拝行為を異なった方法で理解しています。それらの義務を実行するというそれぞれの行為には深い(内面的な)側面があり、それはしもべの意識と自覚のある一定のレベルが求められているのです。
宗教的義務やするべきことの最も深い面は信仰であり、それは包括的な注意と自覚を必要とします。イブン・アル=ファリドは次のように述べています。「私の精神的な旅の中で、私が達したどんな状況や地位においても、常にしもべとしての崇拝と義務の行為は私の信仰によって果たされていた。」
崇拝を一般の人々の奉仕、しもべであることをアッラーのしもべであるために必要とされていることで、見識と自覚を持っている人々が実行すること、信仰をアッラーの近くに辿り着けた素晴らしい人々の責任であると定義する人々もいます。最初のグループはアッラーの道を進もうと努力している人々を含み、第二のグループは精神的心理的態度によって、一見克服できそうもない障害や困難を乗り越えられる人々を含みます。そして第三のグループは精神的心理的状態ゆえにアッラーと共にいることを深く感じ、心の底からアッラーに向かうことができる人々を含みます。
また、上記の説明を2つの言葉にまとめる人たちもいます。絶対なるアッラーの本質への崇拝と限定されたアッラーの特質への崇拝です。前者は創造主と被創造物、崇拝される側とする側、監視する側とされる側、維持する側とされる側の間の関係に対して常に自覚的であることと、考え感じ行動する際にこれらの関係について最も深く自覚していることを意味します。後者は日常の義務をこの自覚に相応しいように実行することを意味し、それによって自分の自覚をさらに増やすことになるのです。これらの義務を実行する人々は意思や決意、決心、誠実さによって以下のように分類することができます。
楽園に入ることを望む人々
地獄から逃れたいと望む人々
アッラーに対する畏敬の念で愛し立つ人々
創造主(唯一崇拝されるに値する存在)であるアッラーと人間(自らの創造主を崇拝しなくてはいけない被創造物)の関係によって求められていることをするという人々です。

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