|
2005年10月号
人間とイスラームを分けて考える
私自身が証人となり、イスラームとはどんなものなのかを知ってもらうということは私の望むことです。しかし、そんな理想にまだまだ手が届いていないのが現実です。ムスリマとして生活していくうちに、次第に自分が証人にふさわしいように振舞うべきだという自覚を持ち始めました。証人にふさわしいとは、その人を見て、イスラームが見えるような人です。つまり、常に公正であったり、正直であったり、寛大であったり、することです。しかし人間は弱いもので、常にそのような状態に自分を置くことはとても難しいことです。時々私は、私を通してイスラームというものを理解して欲しくない。と消極的になることがあります。その時はたいてい私がムスリマとしてふさわしくない行動をしている時です。このような考え方は大げさに聞こえるかもしれませんが、実際に私がイスラームを知った時というのは、人の行動やしぐさを見た時や、話しをした時でした。一人のムスリマとしてそんな存在になれたら、証人にふさわしい存在に近づくことができるのでしょう。
自分と他者
このムスリム、ムスリマはこうである、でもこのムスリム、ムスリマはこうである。という質問を投げかけられたことが度々ありました。その内容は、服装に関することから、飲酒、食するもの、それから生活態度など様々なことについてでした。確かにある人とまたある人では先ほど上げた事柄について違った様子が見られます。
そして、その質問には必ず、「イスラームではこうなのか?イスラームではこうではないのか?」と続きます。つまり、ムスリム、ムスリマを通してイスラームを見ているのです。思い返せば、入信する前には私も同じことを考えていました。さらに、入信した後も、「イスラームではこうあるのに、どうして彼らはそのようにしないのか?」という不快に似たような感情にまで至りました。
しかし、イスラームには強制はないし、それはその人の問題としてその人自身が解決しなければならないものであることを学びました。どうして私はがんばっているのに、他のある人はがんばっていないのかと悲しくなる時もありましたが、そんな考え方は間違えていると今は考えています。何を尺度にがんばっていると決めるのか?それは神様だけがご存知で、私が測るものではないからです。そもそも私自身ががんばっていると自分で思うことにも問題があります。
実際にもっとがんばれるのに、自分で限界を定めて、限界までがんばったとして自分を納得させているかもしれません。それから、他人を見る余裕があるなら、もっと自分を見る余裕があるはずということを自覚するべきです。最後の日には自分のことで精一杯になり、自分の親のことさえ考えられなくなるといわれます。他者に目をやるよりは、自分の善行をせっせと積んだほうが賢明のようです。

Copyright (C) 2005 やすらぎweb.com.
All Rights Reserved. |