2006年11月号 

編集部より


 

ラマダーン明けの祭り「イード・ル・フィトル」が終わると、今度やってくるのはイスラームのもうひとつの祝祭「イード・ル・アドハー(犠牲祭)」です。この日ムスリムは預言者イブラーヒームの故事に倣って動物を犠牲に捧げます。「犠牲」という言葉には、このように動物などを神に捧げる儀礼という意味の他に、戦争や災害などで亡くなること、そして何らかの目的のために大切なものを差し出すという意味もあります。


この「犠牲」という言葉には、どこか被害者的な、苦痛をもたらされるようなニュアンスが感じられます。しかし日々の生活は、特に上記の三番目の意味で使われる犠牲がなければ成り立たないように思われます。例えば思わぬ災難に見舞われた人にお金を寄付したり、困っている人の手助けをすることは社会生活を潤滑にする上で非常に重要なことですが、財産や時間、労力など人が所有するものの一部を割くこととなり、ある意味犠牲を払っていることになるわけです。


私たちには自らの所有物に対する執着心、また自己保身の念があります。何かを手放すことには一般的に苦痛を伴います。また何事にも対価や見返りを求めるのが当然と考えたり、心のどこかで期待したりします。善意で行ったことでさえ、結果が思い通りでなかったり自分自身が傷を負うと憤りを感じてしまうものです。しかしそれは自分が与える側だとの錯覚に囚われてしまっているからではないでしょうか。所有する財産や能力を、永久不滅な、濫用できる特権のように思い込んでいるからではないでしょうか。そういった所有物はたまたま各々の手元に留まっているだけでいつ失われるか誰も分からないものです。


あらゆるものの帰属先は誰でもなくどこか別のところにあり、人や何かを通じて流れているだけだとみなし、必要なものはそこからやってくると考えれば、手元にあるものに固執して視野を狭めることなく、犠牲を犠牲とも思わず、苦はそれほど重荷とならず、誰もが少しずつ気楽に生きられるようになるのではないかという気がします。

 


 


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