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2006年10月号
編集部より
このところ、なんとなく体調不良を感じていました。未経験の症状で、どこかおかしいと思いながら様子見が続いていたある日のこと、これはもしかしたら何らかの重病の兆候なのではないかという思いに突然駆られ、そのとたん闘病生活を送っている自分自身のイメージが脳裏を横切ったのです。そして様々な想像が次から次へと浮かんでは消えていきました。死期を目前にして、体が持つ機能や役割を適切に使ってこなかったことに気付き悲嘆にくれる私。主人や周囲の人々に対して行ってきた不義理を悔やみ、許しを求めずにいられない気持ち。お金やあらゆる所有物の価値が無と化して虚しいものに成り下がったような感覚など・・・。しばらくしてようやく、私はまだ生きているし普通の生活が送れている、明日にでも病院に行けばいいし検査しなければ何も分からない状況だという当たり前のことに気付いて落ち着きを取り戻しました。
病気や怪我をして体が不自由になったときに、誰もが健康のありがたさ、体の精巧さを実感します。また同じような苦しみを味わっている人々に対する思いやりも生まれます。ただいったん症状が回復すると、「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」のが人間です。大病でなくとも、頭痛で集中力が格段に落ちたり、喉の痛みで飲食がままならなくなったりと、ごくありふれた症状でさえも非常に辛く日常生活に支障をきたすことが分かります。それがない状態、つまり体が正常に機能し特段の問題も感じず、元気に動けることは幾重の恵みでしょうか。決して当たり前のことではなく、感謝してもし尽くせない素晴らしいことではないでしょうか。
ハディース(預言者の言行録)に、「朝には夕べを期待するな。夕べには朝を期待するな。病のために健康をふりあて、死のために生をふりあてよ」という言葉があります。大げさなまでに広がった私の空想は、体や健康の大切さを知っているようでいながら熟慮し実感しようとしなかった私に、圧倒的なまでの無力感を味わわせてその意味を考えさせようとする力が働いたのかもしれません。

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