2003年6月号 

編集部より


「祈り」と聞いて思い浮かべるのはなんでしょうか。教会で手を組み合わせてやや俯き加減に祈るキリスト教徒、過酷な五体投地でカイラス山巡礼を敢行するチベット仏教徒、マッカ(メッカ)に向かって集団で一日5回の礼拝を捧げるムスリムたち・・・様々なイメージが目の前に湧きあがってきます。同時に「祈り」は、特定の場所で特定の形式のもとに行うような、宗教によって異なるものばかりではありません。私たちは誰もが常に、家族の無事や勉学・仕事における成功など千差万別な願いを祈っています。つまり特に宗教と関連付けなくても人間は、意識的もしくは無意識のうちに祈っているのがその本質ではないでしょうか。祈りと向き合う人間の心は老若男女、国籍を問わず万国共通でしょう。

イスラームで一般的に祈りとされるものにはサラート(礼拝)とドゥアー(祈願)があります。前者は決まった動作を繰り返す中でクルアーンの一部を読誦したり、アッラーを称賛するズィクル(唱念)や預言者の祝福を祈念するドゥアーなどを唱えることによって構成される一連の崇拝行為です。ここでの目的は人間が一対一でアッラーに対峙し、最も間近に接する中で服従を誓い感謝や称賛の気持ちを表すことです。他方で後者のドゥアーとは基本的に、自由に願望を述べアッラーが叶えてくださるよう祈願することですが、中には「就寝時に唱えるドゥアー」や「食事の前に唱えるドゥアー」などのように状況に応じて、クルアーンからの抜粋やハディースに伝えられている決まり文句もあります。

今月の小誌は上述した「ドゥアー」が主なテーマとなっています。
何かを願うとき、人間はなぜ祈るのでしょう。本能的に己の非力さを認識し、何事も自分ひとりの力では成しえないことを自覚しているからに他なりません。そして希望が成就したとしたら、それは本人の努力の賜物であることはさりながらも、努力が実を結ぶことは必然でないことを考えると、何らかの力が秘められているのを感じるでしょう。反対に物事が思い通りに運ばなかったとしても、努力不足のほかに何らかの答えや意味があるはずです。成る・成らないは運や偶然の積み重ねに左右されると軽く見過ごしていた事柄も違った角度から見えてきませんか?ドゥアーの持つ力とそれによってもたらされる結果についてみていきましょう。

 


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